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花火の歴史は事故との歴史

投稿日:2017/03/12

株式会社磯谷煙火店 磯谷尚孝

 NHK静岡が制作した「誰が上げたか打ち上げ花火」という特別番組があり、花火の歴史についてとても興味深いものでした。丸く開く打揚花火の歴史は意外に新しく、起源は江戸時代後半1800年くらいだと予想してました。もちろん“おもちゃ花火”を中心とした花火は、江戸で花開いていましたが、打揚花火となるとたかだか200年ちょっとの歴史です。その番組はルーツを探る番組だったのですが、色々の情報を辿っていくと、いずれも愛知県三河地方に収束していきました。

kakajiku 愛知県煙火組合(前身は明治後半に結成された三河煙火同業組合)に、大正時代からの物故者の名前が記載されている掛け軸が何本かあります。事故の死者が多発し、その方々を弔うために作られたのだと思います。同じ命日で複数人の名前が連なっているので、事故により亡くなられた方だと推測できます。また、昭和39年に出版された「火薬類の事故集」(日本産業火薬会資料編輯部)に明治からの煙火事故の詳細情報があります。どういう訳かこの二つの資料で共通している事故は多くはありません。事故の数が多く全部を把握できなかったのかもしれません。二つの資料を調べると会社情報の“ごあいさつ”に書いたように、大正から昭和の初め愛知県内の花火事故で年平均4人以上の方が亡くなっています。

 明治時代、三河地方では農民が秋祭りの娯楽のひとつとして花火を作っていました。明治維新でマッチとともにその原料である塩素酸カリウムが日本に輸入されました。これにより花火で様々な色が出せるようになり花火業界は一大変革期を向かえたのです。ただ、この薬品は感度が鋭敏で、作業者が摩擦、打撃を加え事故が多発したのでした。危険情報が行き渡っていなかったのか、あるいは危険を知っていても綺麗な色を出したい気持ちが強かったのかどちらかです。私は後者の可能性が高いと予想しています。そんな事故の多発する悲惨な状況でも花火作りの継承は脈々と続き、途絶えることはありませんでした。いったんこの継承が途絶えれば、復活させることはもうできません。愛知県は現在でも花火会社の数は全国一多く約30社あります。ただ、これくらいの時期から打揚花火メーカーからおもちゃ花火メーカーに業態を変えた会社がいくつもあります。

 それ以降も煙火業界はこの魔の薬、塩素酸カリウムの起因する事故に悩ませられ続けました。この塩素酸カリウムをようやく克服できたと言えるのは、時代が平成に入ってからでした。ずいぶん時間がかかったものです。