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花火師を決意した日

投稿日:2018/04/16

株式会社磯谷煙火店 磯谷尚孝

 家業が花火作りの家に、私は生まれました。夏は繁忙期で両親は工場に行くので、夏休み兄弟3人家で過ごします。昼になると姉が肉屋でコロッケを買ってきて、子ども達はそれをおかずに冷たいご飯で昼食をとるのが恒例でした。当時、夏のレジャーというと海水浴があげられますが、私は両親に海水浴に連れて行ってもらったことがなく、見かねた親戚のおばさんが何回か連れて行ってくれたことを覚えています。お盆休みは、今でも普通の方がどのように過ごしているのか想像できません。

 中学の夏休みには、私もお手伝いにかり出されました。作業は大変でしたが、特別嫌だということもなく、花火大会にもついて行きました。そして花火を見た観覧客が喜んでいるのを見て、自分も興奮していたのです。高校生になった頃には、もう花火の仕事に就きたいと思っていました。父は私の意向はある程度理解はしていたのですが、いつも花火師の道は勧めませんでした。花火と事故はつきものだし、ビジネス的にも打揚花火業界がよいとは思えなかったからでしょう。

 大学4年になった頃、時々自問自答していました。昔のように毎年何人かが事故で亡くなるという業界ではありませんでしたが、まだ製造中の事故を時々聞いていました。私は花火師の道を決断する前に、花火で死んでも構わないか自分に問いかけました。究極の問いです。もちろん花火事故では死にたくはありませんが、そこまで覚悟しておきたかったのです。そして卒業が迫ったある日、父親と私の将来について話しました。普段父とはコミュニケーションをとっていなくて、ぎこちない会話でした。もちろん花火の仕事を継いでくれたら父は楽になることはわかっていても、更に大学院で勉強したらどうかと、父に尋ねられました。大学院での勉強が花火作りに役に立たないことはわかっていたので、私はその選択肢がないことを伝えたのです。そして、この日が花火師を決意した日となりました。

 卒業をむかえる同じ研究室の先輩方が、どの仕事に就きたいという特別な理由なしに就職先を選んでいるのを見て、自分は幸せだと思ったのです。

kodomofudoki
 中学3年生の作文